「学ぶ」ということに、私たちは人生の4分の1ほど費やすことになります。「学ぶ」ということは自分がそれまで知らなかった知識や技術を習得するということです。

私たちは生涯の前半を「学ぶこと」に専念することになります。小学校に「就学」してから、大人になるまで、私たちは学ぶことをやめません。毎日頭を回転させ、その日、その瞬間まで知らなかったことを学び続けるのです。そしてそれらは定期的に試験され、定着度合いを試されます。ただ、「学生」であるときには私たちはそれらが何の役に立つのかわからないまま学んでいます。そこで「学ばなければいけない」から学んでいるようなものです。因数分解が将来の何に役立つのか、古語を覚えることが将来の何に役立つのか、私たちは誰も知らないまま、とにかく「勉強」、とにかく「成績」を追い求めていたのです。

ただやがて、私たちは「社会」という有象無象がひしめく巨大な波に挑まなければいけません。学校とは違い、さまざまな年齢の人がいます。さまざまな境遇の人がいます。さまざまな人がさまざまな価値観を持った、どこが着地点、どこがゴールなのかわからない世界です。そのような世界で私たちは死ぬまで戦うことになります。「自分はなにがやりたいのか、自分はどのようなことがしたいのか」そのようなことはわからないまま働き始めると、「何もできない自分」に驚くことになるでしょう。

そのような社会に挑むためには、何か特化した技術が必要になることもあります。特化した技術で、なにか特定の分野に対して明らかな実効力、影響力を持って挑むことができれば、「自分はなにをすべきなのか、自分は何を武器にして戦いたいのか」ということに答えが出るかもしれません。

そのためには早い段階で「これがしたい、こうありたい」という、自分の可能性を見据えておく必要があります。特化した技術、特化したスキルというものは、磨かなければ身につかないものです。そして自分から進んで学ばなければ身につかないものです。そのためには「意志」が必要です。自分は「この分野で生きていく」という意志、自分は「こうやって生きてく」という意志です。

それが定まった人に対して存在しているのが「専門学校」というものです。意志が定まった人に対して、何をしたくて、その道を極めたいと望んでいる人に対して、その「道」を示すことができるのが専門学校です。可能性を「可能性のまま」にしないために、「可能性」を「リアルな未来」に変換するために、特化した知識を体系的に、そして集中的に学ぶということが必要なのです。そのための環境、ノウハウ、講師を揃えた機関が、専門学校です。大学とは違って、その分野の知識を実践的に学ぶことができます。ほとんどの場合は、期間は2年間です。その間にその道、その分野の世界において通用するだけの技術を身につけることができるようになるように、自分の意志のまま学ぶことができる場所です。