学校に通うということは一種のモラトリアムとして捉えることもできます。それは「社会に出るまでの猶予期間」ということです。とりあえず「学生」をやっていればいいということです。
その後、嫌でもみんな仕事に就く必要があります。「働く」ということが必要です。社会はおかしなもので、働く人には厳しく、働かない人に対しては保護などを適用して優しく接するように出来ています。それは「働かない人」と「働けない人」の区別がつかないからです。私たちは最低限度の文化的な暮らしをする「権利」を保証されていて、働かなくても生きるだけなら可能なのです。
ただ、「生きているだけ」という状態がどうしても我慢ならないのが私たちでもあります。自分の能力、才覚を活かして社会に貢献したいもので、自分の能力、才覚を伸ばしながらよりレベルの高い仕事を行いたいものなのです。それは収入を増やすという向上心があってのことかもしれませんし、「退屈したくない」という気持ちがそうさせるからかもしれません。何にしても私たちは、いつかは働く必要があって、どうせ働くならば少しでも好きなことをしたいと考えるものなのです。
そのために専門学校に通うはずです。学校に通わなければその「自分が働きたい道」、「自分が進みたい道」を歩むためにはスキルと知識が必要だからで、それを学ぶために2年間も学校に通うのです。大学であれば、3年の頃から悠長に就職活動を行えばいいでしょう。働きたい人を募っている会社がたくさんあります。人並みに就職活動を行って、人並みに自分に合う会社を見つければいいのです。
ただ、働くために特化したことを学ぶ専門学校生には、大学の新卒のような悠長な就職活動期間は存在しません。それができるかどうか、その道で生きていけるかどうか、それが問われるだけです。その「道」で生きるに足るモノを身につけることができたかどうか、その道で生きる資格があるかどうかということが問われるだけです。
「遊びたい」という気持ちは誰もが持っているでしょう。楽をしたい、楽しいことがしたい、苦労はしたくない、そのように考えている人はたくさんいます。人であれば当然のことです。ただ、それだけで生きていけるほど世の中は甘くないということです。それだけで生活ができれば、世の中に「働く」などという概念は存在しないでしょう。
楽しいこと、甘いことだけでは成立しないのが「社会」です。みんなそれぞれ、厳しいこと、辛いことを乗り越えて、自分の仕事を果たしているものなのです。そのような状態で切磋琢磨しあうのが社会です。遊ぶのは自由ですし、そのような誘いも多いでしょう。ですが、毎日そのように甘えていると、そのしっぺ返しは「自分」に降りかかります。自分がいざ「働きたい」と考えたときに、「何もできない人材」に落ちぶれているかもしれません。学生の時から「先を見た行動」が大切で、その「先」というのはとりあえず「卒業後」ということになるのです。