学ぶ「意味」を考える

人はどのようなことでも成すことができる「可能性」を持っています。その可能性は自分で育てていくものなのですが、現代ではさまざまな「情報」を先に得ることができるもので、何をがんばれば良いのかということがわかりにくい時代です。

かつて「ゆとり教育」と呼ばれるゆるい学校教育を受けた人が社会に進出するようになり、「やはりゆとりではいけない」と、文科省はまた舵を切り直しました。その世代の人にとってはたまったものではありません。「自分たちが受けてきた教育は間違いだったのか」と、不安になるというものです。ですが、決してそうではありません。

戦前と戦後では「教育」はだいぶ違うものです。20世紀と21世紀でも全然違うものです。今、大人になっている世代は総じて「英語」が苦手です。ですから、ようやく現代の教育では「身につく、会話のできる英語」を子どもたちに学んでもらおうとしています。それでは、それまでの教育を受けてきた私たちは国際社会では無力なのかというと、そうではありません。

どのような教育を受けてきても、その時代の人は「その時代」を作ってきたものです。人が時代をつくり、その時代に生まれる次世代を育ててきたのです。それらの期間を否定することは誰もできません。自分たちがそこにいるのは、今生きているのは、「その時代」があったからです。この国を発展させ、国際社会の中でも自立できるように守ってきた人がいたからです。そのようなことを忘れてはいけません。その時にはその時の教育があり、その教育が時代を作り、社会を支えてきたのです。

「学ぶ」ということは、自分が担うべき「時代」の「源」です。自分が学んだこと、自分が身につけたことは、自分の「働き」によって社会を支えるのです。時代を作るのです。専門学校は特に「仕事」に直結する学校です。学んだことをそのまま自分の仕事に活かすことができる学校です。どのようなことを学んでも、どのような生き方をしても、学んだことは変わりません。一度身につけたことは消えません。

それを「どう活かすか」は自分次第なのです。世の中の真理というものは変わることがありません。人が働いて、社会を動かすことに変わりはありません。学ぶことの「意味」は、そこにあるのです。「社会」にあるのです。

自分がその「道」に就きたい気持ち、それこそが社会を作る原動力です。「これがしたい、こうありたい」という自己実現の「意志」こそが、この国を発展させるエネルギーなのです。そこには「ゆとり」もなにも関係ありません。「意志」のチカラだけがさまざまなことを吸収できる原動力であり、意志のチカラこそが世の中を豊かにするのです。

専門学校では学ぶことの意味は明確です。自分がその社会で、その「道」で、どう貢献するのかを考える期間です。ただひたすら自分を信じればいいのです。厳しいこと、苦手なことも、すべて意志のチカラで乗り越えるものなのです。