好んで学んでいるということを自覚する

その学校に入ったのは自分の意志です。自分が望んでその「道」の勉強を始めたのです。専門学校とはそういう学校です。それは「大学」も同じかもしれません。

自分の意志で学び始めたことを忘れてはいけません。小学校、中学校、高校と、「理由」が見つからないまま教育を受けてきたのだと思います。ですが、高校を卒業してからはさまざまな道が存在しています。そのまま働く人もいます。親に言われて大学に無理やり入学する人もいます。その中で、専門学校を選ぶ人はモラトリアムとしてではなく、「その道で生きる」ことを考えて入学した、もしくはこれから入学するはずです。

本当の意味の「学校」として、自分が学びたいことを学ぶ場所として、その学校を選んだはずです。その「意志」に対して両親が学費を捻出してくれたわけです。あるいは生活費まで工面してくれているわけです。その「期待」に応えることは、紛れも無い「責任」です。

自分が稼いだ資金で、自分の責任で、その学校に通うのであればいいのです。ただ、両親に迷惑をかけながら選んだその「道」に対する責任は、絶対に忘れてはいけないことです。自分の自由、自分の将来は自分で決める、大いに結構なのですが、専門学校に
は相応の予算がかかります。それを捻出してくれた保護者に対する節度は、絶対に守るべきです。それは大学でも同じです。

生きるために学ぶ、生きるために予算をかけて成長させてもらう、専門学校生とはそのような身分です。「自分の自由」というものは、自分が生きるだけの費用を自分で稼ぐ人が言うことです。そうでないのであれば、「自由」という言葉を口にする資格はありません。高校を卒業したら自由、校則に縛られなければ自由、そのようなことは絶対にないのです。自分の責任で自分の命を支えることができるかどうか、それが「自由の資格」です。

やりたいことがある。それは大いに結構です。モラトリアムとして大学に通い、みんなに合わせてただなんとなく就職するような人と比べると、格段に前に進んでいるでしょう。ですが、だからといって「偉い」わけではないです。ただ「自分の進みたい道」が見えているだけです。

それを自分のチカラで叶えることができてはじめて、「偉い」のです。

学んでいる、学ばせてもらっている、そのようなことを片時も忘れてはいけません。誰もが自分ひとりのチカラで成長したわけではないということ、誰もが自分ひとりのチカラで生きていけるわけではないということを知ってください。その上で、選んだ「道」なのですから、貫徹する「意志」を持ってください。すぐに諦めたり、目移りしたりしてしまうようでは、そのために費用をかけた人に対して失礼です。そのようなことにならないように、「自分は本当にその道で生きていけるのか」ということを考える必要があるでしょう。

専門学校はモラトリアムのためにあるのではありません。その道で生きていくチカラを身につけるために存在しているのです。